てのひら 毎日新聞社主催 第14回「小さな童話」大賞 第一次審査通過むぎわら ゆら

 今日、新しいスニーカーをおろした。
新しい靴を履くと、一センチくらい背が高くなったような心地がする。

 日曜日の朝は散歩をする。その散歩でこの数ヵ月の間に一足靴を履きつぶした。朝食前に公園まで歩き、気が向けばもっと先までただ歩く。
「老人のような趣味よね」
レイカが新聞記事を切り抜きながら、独りごとのように言う。
 日曜日に彼女が家にいることは珍しい。世の中の事件は、彼女の休日にまとめて スクラップされてしまう。
「健康になるため?そんなに命延ばしてどうするの」
広げた新聞の長方形の空白に、レイカの皮肉っぽく笑った薄い唇がはめ込まれている。私はスニーカを履いたまま、キッチンの床をずかずか歩く。
「あなたも少しは太陽をあびた方がいいんじゃない?不幸ばっかり張り付けてると、余計に性格が悪くなるわよ」
「お説教はたくさん」
レイカの唇がイーッと横に伸びる。私はそのままの足で、散歩に出かけた。

  十月の空が、私は一番好きだ。 その色は行く当てもないような青さで、高く高く澄んでいる。風がどこからか、キンモクセイの甘ったるい香りを私の鼻先に運んでくる。歩くたびに新しいスニーカ ーがきゅうきゅう鳴る。

「ルームメイトを探している友達がいるんだ」 私の恋人がその情報を持ってきてくれた時、すぐに会わせてと頼んだのは私の方だ。 ちょうど、部屋代を半分出し合う相手がいないものかと探していた時だったからだ。 「美容師で、美人で、しかも性格は最悪だ」 恋人は真面目な顔でそう言った。

 レイカに初めて紹介された時、私はその美しさに圧倒された。それは、鑑賞するような美しさではなく、攻撃的な突き放すような美しさだった。大きな黒い瞳が光りを放ち、眉の濃さは意志の強さを感じさせた。背が高く、青白い手足はすんなりと長かった。
 彼女と暮らし始めて3カ月。彼女とまともに顔を合わす日はほとんどなかった。

だから、私は彼女についての知識がほとんどなかった。それは、彼女にとっても同じことだろう。私が見かけるレイカは、煙草を吸っているか、缶ビールを飲んでいるか、新聞を切り抜いているか、マニキュアを塗っている姿だけだった。

 レイカは仕事柄、手の指にはマニキュアは塗らない。子供のように足を抱えて体を折り曲げ、とても丁寧に濃い色のマニキュアを足の指に塗る。親指から小指までの順に、とても丁寧に。
その後ろ姿が、普段とは違い、小さく頼りなげに見える時、私はふっと寂しい気持ちになる。

 散歩から戻ると、ソファにナオが座っていた。 ナオはレイカの弟でしょっちゅうこの部屋にやってくる。二人が話をしている光景を見るたびに、私が赤の他人であることを思い知る。手のひらがこすれる音、たたく音の他に音はしない。ぴんと張り詰めたような静寂の中で、別のしなやかな生き物のように二人の手のひらが会話をする。

 ナオは耳が聞こえない。 ナオと初めて会った時、どう挨拶してよいのかわからずに、私はただぺこりと頭を 下げただけだった。
すると、彼は持ってきたくたくたのカバンから小さなスケッチ ブックを出すと、素早く「よろしく」とだけ書いてみせた。
力強い綺麗な文字が、何かのデザインのようにまっすぐに並んでいた。 ナオはレイカと線の細いところがよく似ていた。姉ゆずりの子鹿のように大きな目は、穏やかに透き通っていた。
 私がナオと会話をするのはひどく厄介だったが(それは、スケッチブックが右か ら左、左から右へ行き来する作業になった)、その割りには何故かすぐに打ち解けられたのだ。

『おかえり』
ナオは、私が所在なげに立っているのを見つけると、口の形だけでそう言った。ビリージョエルの『ピアノマン』が流れている。 彼が必ず連れてくるビリージョエル。この曲が流れると、私は何故か心があたたまるのだ。
今日は、レイカもいる。レイカとナオと私。この顔ぶれが揃うのは珍しい。

 いつだったか、耳の聞こえないナオがいつもこの曲を流しているのを不思議に思って尋ねたことがある。もちろん、スケッチブックに質問事項は書くことになる。 ナオは、意外そうに少し笑ってから、サラサラと鉛筆を走らせた。
『ナナコは耳でしか聞こえないの?』
『昔聴いたことのある曲は、ここで聴けるんだよ』
ナオは頭の横を人指し指でつんと指した。 私は嬉しくなって、つい笑顔になる。そうか、この曲と同じ音楽がナオの頭の中でも流れているんだ。
 私が彼をとても好きになったのは、その瞬間からなのかもしれない。

 日曜日の午前十一時。キッチンのテーブル越しにナオと向かい合っている。 その静けさは居心地の悪いものではない。
レイカはソファに身を投げ出して、ビリ ー・ジョエルとデュエットしている。 私が熱い紅茶を入れる支度をすると、ナオはバスケットからりんごを取り出して器用にそれを剥き始めた。

 りんごの上の方からナイフをサクッと入れる。剥がれた細い皮は、途中で切れる こともなく下へ下へと続いてゆく。まるで赤い螺旋階段のように。フルーツナイフ を握る手のひらは、楽器奏者のように気難しい。 言葉を話す時のしなやかな手のひらとは、別人のもののようだ。
『なんでも器用に出来るのね』
私はテーブルに置かれたスケッチブックに文字を書く。

 確かに、彼は何をやらせても感心するほどすんなりと何でも出来た。電気の配線から棚作り、料理を作っても見ているほうが楽しくなるような手際の良さだ。
『姉さんにしこまれたからね』
ナオは切り分けたりんごを皿に並べると、照れ臭そうに鉛筆をすべらせた。
『他人を当てにしないように、どんなことも一人で出来るようになりなさいってね』
『人に期待するのは、いけないこと?』
『そうじゃないよ』
ナオは一瞬手を止めた。

『人に依存することと、人を信じることは違う』
私の目をまっすぐにのぞきこんだナオの瞳がわずかに揺れている。
『レイカも料理するの?』
『味は保証出来ないけどね、人間が食べられるものは作れるらしい』
ナオはおかしそうに笑う。彼にとっては自慢の姉なのだろう。
『一緒に暮らしてから、そんな姿一度も見たことない』
『照れ臭いんじゃないかな』
『まさか』
『本当。ナナコのこと、好きみたいだからさ』
『信じられない。それは』
私は笑った。
『僕もそれは信じられない』
ナオも顔中で笑った。
 ビリー・ジョエルは声がかすれるほど歌を歌い続け、レイカは音程が外れるほど大きな声で歌っていた。

スケッチブックを埋めていく私とナオの言葉は、歌声にかき消されることもなく、濃く薄く、大きく小さく続いていた。
『ひとつだけ僕は姉さんに適わないことがある』
『なに?』
『姉さんは僕の言葉も話せるけど、僕は姉さんみたいに髪は切れないからね』
私とナオは顔を見合わせて微笑んだ。
 私はナオの言葉も話せなければ、レイカのように髪も切れない。私に出来ることはなんなのだろう。この二人の間に入りたくて、いつのまにかもがいている自分のことを思った。
 りんごは見かけよりも酸っぱかった。噛むとサクサクと音をたて、柔らかい日差しはゆっくりとテーブルの上を移動していった。

 次の週の日曜日、目覚めると頭が熱っぽかった。体がだるく、私はベッドに横にな ったまま天井をぼんやり見上げていた。外は音もなく細い雨が降っている。
突然、部屋のドアがガバッと開き、レイカが怒ったような顔を覗かせた。
「散歩、行かないの?」

「行かない」
私はぼそっとつぶやいて布団にもぐりこんだ。
「なんで?」
変なの。老人趣味だって馬鹿にしていたくせに、今日に限ってなんで気にするんだろう。それも雨が降っているというのに。
私はなぜか、学校をずる休みしようとしている子供のような気分になった。
「風邪ひいた」
布団をかぶったまま私はそう答えた。 レイカはしばらくだまって立っていたが、「そう」とやっぱり怒ったように言ってドアを閉めて部屋から出て行った。

 私は急に心細くなって起き上がると、ふわふわした頭でキッチンまで歩いていった。 顔も手もぼうっと熱い。冷蔵庫からエビアン水の瓶を抱えると、私はベッドに倒れ込んだ。よく冷えた瓶に頬を押し付け、私はいつの間にか眠り込んでいた。
 浅い夢のな かで、ひんやりと冷たい手のひらが私のおでこに触れるのを感じた。私はその冷たい手のひらを宝物のように胸に抱えて、深く深く眠りの底に落ちていった。

 もう一度目を覚ましたとき、胸に抱えていた手のひらはどこにもなかった。 私は夢の続きを探るようにベッドの回りを見渡した。手のひらはやっぱり跡形もなかったけれど、眠る前にはなかったものが色々とあるのに気付いた。氷枕、風邪薬、鮮やかな色をしたオレンジ、雑誌、それにスケッチブックの一ページ。

『姉さんから頼まれました。お大事に』

 結局、私はそれから一週間風邪を引き通しだった。 ようやく治った頃、私の姿は見るも無残だった。パジャマ姿のままキッチンに行くと、レイカがぎょっとしたような顔をしてから、弾けたように笑いだした。初めて聞いた彼女の笑い声だった。
「うるさいっ」と私が投げたクッションが、見事にレイカの顔に命中した。

「快気祝いに、髪切ってあげるわよ」 午後になって、レイカは庭に椅子をひとつ持ち出してそう言った。

 青空の下で私は椅子に座る。パジャマのままで日差しをあびるのはくすぐったい。
レイカはケープをきゅっと私の首にまきつけて、伸びた髪を手際良くカットしていく。 このまま眠ってしまいたいような穏やかな空の下、レイカはぼそっとつぶやいた。

「私もスニーカー買ったんだ」