水族美術館 毎日新聞社はないちもんめ編集部主催 第7回小さな童話大賞 佳作むぎわら ゆら

 海の近くを散歩した帰り道に、美術館を見つけました。 おだやかに続く細い歩道の途中に、何を思ったのか、びっくりするくらいおおきな建物が、でんと構えていて、わたしは、おもわず立ち止まって見上げました。
垣根も、へいも、囲うものが何もない、吹きっさらしの建物…。
 その入り口らしい扉には、ペンキ塗りたてのようなつやつやのプレートがさがっていて、誰かの落書きみたいにそっけない文字で、
『水族美術館』
と記されていました。
 中は広々としたホールになっていて、まるい柱がいくつも天井までのびていました。
その高い高い天井の真ん中には、おおきな真四角の天窓があります。朝いちばんの空の色の壁と、よく磨かれた床には、天窓の景色が映っているので、どこからどこまでが部屋なのかわからないくらいに、はてしなく見えました。
窓ガラスのむこうには、よく晴れた青空が見えます。

 最初に見た絵は、水彩画でした。
いちめん、あざやかなコバルトブルーに塗られただけの絵。
ぼんやり見ていると、いつのまに入ってきたのか、ひとりの老紳士が、わたしの真横にぴたりと並んでいました。
「こりゃあ、すばらしい出来ですね」
「え…?」
老紳士は、低くしわがれた声で、ぼそっとわたしに話しかけました。
(この絵のことかしら…でも、この絵のどこが、すばらしい出来なんだろう)
わたしは、そう思いながらも、「そうですねえ」と答えました。
 深いグレーのスーツはなかなかしゃれているし、白髪のまじった短い髪にちょこんとベレー帽をのせているところを見ると、絵かきさんなのかもしれません。
「これは、ついこのあいだの日曜日の海ですね」
老紳士は、そうでしょう?とでも言うように、くるりとわたしの方を向きました。
「さあ…どうでしょう」

わたしは、首をかしげました。
「あなたは…よく来られるんですか」
「ええ。ここにはなんでもありますからね。ため息がでるようなすばらしいものも、遠くに忘れてきてしまったものも、なんでも」
 老紳士の声は、もっと深いところから聞こえてくる感じがしました。
わたしは、わかったような、わからないようなあいまいな返事をして、そこから歩き出しました。

 その後も同じような青い絵がつづいて、老紳士は、その度に、
「これは、遠い南の海ですね」
「ああ、これは淋しい時の海」
「これは、流れ星の落ちた海ですよ」
と、わたしに説明しながら、暗い灰色の目でうっとりと見つめたり、悲しい顔をしたりしていました。

 不思議なものです。そう思って見てみると、本当に、老紳士の言ったとおりに見えてくるのです。
絵の中に、星みたいなあかりを灯す灯台や、細長いあかね色の雲の切れはしや、それから…あそこにぽつりと立っているのは、あの子でしょうか。
「れいこちゃん…」
わたしは、ふと、つぶやきました。

 あのときかぶっていた帽子のリボンは深いオリーブだったはずです。聞いたこともないめずらしい花の名前を教えてくれたり、かしてあげた本に、そっと、美しいしおりをはさんでくれたのもあの子です。
毎日のように、陽が暮れるまで遊んでいた、あの海。

 あれは、何年前のことだったでしょう。
子どものころ、いつもいっしょに遊んでいたというのに、れいこちゃんの家を訪れたのは、いちどきりでした。

真っ白なワンピースがよく似合うれいこちゃんのお母さんは、きっと、真夏の雲みたいなエプロンをしているのです。白くてほっそりした手で、長い髪をきれいに結ってあることでしょう。
それから、お菓子を作るのが上手で、こんがりと焼いたクッキーをごちそうしてくれるかもしれません。
 けれど、わたしをむかえてくれたのは、しわがれた手をした、やせたおばあさんでした。
「お父さんがいなくなってからは、おばあちゃんとふたりきりよ」
不思議そうな顔をしているわたしの前で、れいこちゃんははずかしそうに笑いました。
「どうして?」
わたしはちいさな声でたずねました。
「お母さんは、見たこともない男の人のところへ行ってしまったのだもの。あたしの手をひくかわりに、おおきなかばんをかかえて」
れいこちゃんは、まるで、お天気の話でもしているみたいに、笑った顔のままでそう言うと、少しさびしそうな顔をしました。

「ふうん」
夕日のせいで、いつのまにか、カーテンのむこうが、燃えているようにあかあかとゆれていました。こわいくらいに、あかく…。

 その時、いちどきり。どちらが決めたわけではなく、それからふたりの遊ぶ場所は、もっぱら近くに広がっている海でした。
砂浜に落ちているうすいピンク色り貝を拾い集めると、れいこちゃんは木綿の糸で、器用につなぎあわせました。
貝のネックレスは、風にさらすと、やわらかな音をたててゆれました。
「ほら、子守唄みたい」
れいこちゃんは、目をとじると、そうつぶやきました。
わたしは、そのちいさな横顔を見つめていましたが、やがて、そっと目をつぶりました。

さらさら…さらさら…

それは、波音に重なって、かすかに聞こえました。

わたしには、その音が、どうしても子守唄には思えませんでしたが、ただ、だまって、耳をすましていました。

 静かな夕暮れでした。まぶたの奥で、ほのおのような夕焼けが見えました。だまって目をつぶっていると、この地球上に、たったひとりでいるような気がしました。ただ波の音がくりかえしくりかえし聞こえていました。
 わたしは、なぜだか、きゅうにさみしくなって、立ち上がるなりかけだしました。砂浜がまとわりつくようで、時々、つまづきそうになりながら。母のもとへ、いちもくさんに…。

 なつかしい思い出が、すべるように頭のなかをよぎってゆきます。
あれから…れいこちゃんは、どんな大人になったのかしら。そう思ったとたん、胸のおくの方で、きしりと何かが音をたてたような気がしました。
 ああ、れいこちゃんは、あの海にとじこめられてしまったはず…。わたしは、きゅうに思い出して、頭がくらりとしました。やさしい子守唄が、いつでも聞こえるように、あの子は、海の住人になったのです。

 思い出といっしょに、どこからともなく透きとおった風がひとすじ流れこんだようでした。すると、わたしの目のはしの方で、何か白いものがちらりとゆれました。

 カモメでした。天井から細い糸でつりさがっている、カモメのオブジェ。
今にも飛び立とうとしているのか、それとも、たった今たどり着いたのか、カモメの澄んだ目は、空を見つめていました。
それは、わずかな風にのってゆらゆらゆれていましたが、やがて、おおきく、おおきく、ゆれだしました。まるで、飛び立とうとつばさをはばたかせているように。

 ふと、壁の色が濃くなったような気がしました。
そういえば、空気がうっすらと青く見えるようです。天窓からさしこむうすい光が、部屋全体にまだら模様となって、かすかにゆれています。見上げると、窓のむこうを、青い魚の群れが通り過ぎました。
澄んだ水を通して、時々、やわらかな陽射しが、ずっと遠くでゆれているのが見えました。

「なんだか、へんですね」
と言おうとして、老紳士の方にふりむいた時、おおきな銀色の魚が、わたしの目の前を通りすぎると、ガラスをすりぬけて海へ跳びだしました。

 天窓のうすいガラス一枚をへだてて、目もくらむような青い海の底がゆらめいていました。この美術館ごと、沈んでしまったのでしょうか。それとも、海がまるごと、この建物の上におおいかぶさったのでしょうか。
 わたしは、ぼうぜんと見上げたまま、立ちつくして動けないでいました。もし、一歩でも動いたら、とたんに海にのまれてしまう、そんな気がしたのです。

 その時、ばさばさっとおおきな羽音がして、わたしは、はっと我にかえりました。 カモメの糸が切れたのです。とうとう、つばさを広げて、飛び立ったのです。ゆらりと浮き上がると、まるで泳いでいるかのように、ふわりふわりと羽根をはばたかせました。

 すると、ちいさな風がおきて、その度にさらさらと何かがこぼれおちるのです。
ちいさな貝がらでした。花びらのようにうすく、そしてはかない色の貝。青い空気のなかで、それは、降りだした雨のように見えました。

さらさら…さらさら…

ほら、子守唄みたい。
そうつぶやいた、れいこちゃんの声を聞いたような気がしました。
 カモメは、わたしの真上を旋回すると、かろやかにガラスのむこうの海に飛びこみました。ぱん、とはじけたように水しぶきがとんで、わたしは驚いて、つめたい床にぺたりと座りこんでしまいました。

 まぶして陽がさしこみました。遠くで波の音が聞こえます。
窓のむこうには、はじまったばかりの夏の午後が広がっていて、置きざりになった雲がひとつ、ぽっかり浮かんでいました。