<ソ><ラ> 毎日新聞社主催 第13回「小さな童話」大賞 山下明生賞受賞むぎわら ゆら

 そういえば、この二つの音が出なくなったのは、いつ頃だったんだろう。
二十年以上も弾き続けた私のピアノ。私が様々なことを抱えていた時、まともに向き合ってくれたのは、このピアノだけだった。ガラクタのように散らばり、途方に暮れている気持ちを、きちんと整頓された和音にして私の耳に返してくれた。

 真夜中、薄青く光る鍵盤に、そっと頬をつける。顔の重みと頬の大きさ分だけの音が、沈んた部屋の中で遠慮がちに鳴る。大丈夫、私は守られているのだから。

 カイと暮らし始めて三年もたった頃、いつの日からか〈ソ〉と〈ラ〉の音が出なくなった。どんな曲を弾いても、その無くなった二つの音は私をひやりとさせた。ちょうど、階段を踏み外したときのように、あるはずの存在が足をすくった。
ピアノは深く傷ついているはずだった。けれど、その姿は、歯が抜け落ち、にたにた笑っている老婆のように思え、私にとってはただ醜く、うっとおしいものでしかなかった。それでも、私は醜いものを指差して笑うように、ピアノを弾き続けた。

 何故、ピアノを直さないのか自分でもわからなかった。どんなささやかなことでも、行動に移すには、多少の勇気と余裕が必要なのだから。私は、そんなふうに自分に言い訳していた。
そのうちにカイは出ていった。まるで、少しばかり長く間借りしていた猫のように背をまるめて。

 私は、昔から背中が嫌いだった。その人の背中を見るだけで、必要以上の気持ちがわかってしまうからだ。
母の背中もそうだった。ちいさな私をピアノ教室においていく時、保育園にあずけていく時、どんな時も母の背中は、少しのためらいもなく燐としていた。これから向かう仕事のことで細い背中は満たされていた。
 私がぐずって泣くと、母は決まって「母さんを困らせないで」と静かに言った。
私は母が好きだから、涙を止める。好きな人は困らせたくないから。ピアノ教室も保育園も嫌いなわけではなかった。ただ、母に振り向いて、笑ってほしかった。それだけだった。

 カイがいなくなってから、私はそのすべての理由をピアノのせいにした。思い浮かぶかぎりの原因を集め、音の抜け落ちたピアノに詰め込んで蓋を閉ざし、鍵を掛けた。ただの余分な家具として目をそらし、私はそれから部屋を空けるようになった。

 その人に会ったのは、街並から少し外れたカフェテラスだった。彼はある時間になると、店の奥の木製の扉を開けて現われ、古いグランドピアノの前に座った。
彼が弾くのは、ジャズナンバーであったり、クラシックであったり、古い映画音楽であったりと様々だったけれど、そのどれもが心地よく優しい気持ちにさせた。
ピアノから逃げた私が、わざわざピアノを聴かせる店に来るなんておかしなものだった。ただ、彼のようにピアノを弾いていたら、カイも出ていくことはなかったのだろうかとぼんやりと思っていた。

 カイは疲れると、よく私のそばへ来て曲をリクエストした。音楽にうとい彼が曲名など知るはずもなく、それは決まって、彼のイメージを説明したものだった。

「ほら、あのコロコロ転がっていくヤツ」とか「夕焼けの向こうでさよならしてるヤツ」とか、カイのイメージは子供の描いた絵のように単純で、純粋だった。
その説明は時々私を悩ませ、しまいにカイの変な音程で思いつく曲を手当たり次第に弾いたものだ。

 出ていく何週間か前、カイは私にこう言った。
「僕がいる時は、ピアノを弾くのをやめてくれないかな」
「何故…?」
「僕は君と二人で暮らしているつもりだった。だけど、君は三人で暮らしているんだ。三人で暮らすにはバランスがいるんだよ。なのに君はそのバランスを取ろうともしない。君がピアノに向かい合うように、僕に向かい合ってくれたことがあるかい?最近は特にそうだ」
カイの声は静かだった。
「僕とピアノが同時に死んだら、君はどっちのために泣くんだろうね」

「ばかげてるわ。そんな話」私は体が次第に冷たくなっていくのを感じた。
 本当に言わなければならないことが、手探りしても見つからない。
「あなたと暮らすよりもずっと長いこと、私はピアノといっしょだったの。そのことをあなたにとやかく言われたくない」
カイはそれ以上何も言わなかった。怒りも悲しみもずっと前に通り過ぎたような瞳で、私をじっと見つめていた。

 それでも、私は生活を変えなかった。昼間は子供たちに教え、夜は自分のためだけにピアノを弾いた。私から手を放さなかったのは、幼い頃から何一つ変わらない夜だけだった。

 穏やかな夕暮れだった。店の一番奥の二人掛けの席にわたしは座って、持ち込んだ文庫本を何行か読んでは紅茶を飲み、また何行か読んではピアノに耳を傾けていた。
その日は本に熱中してしまい、ふと気が付くとピアノの音は止んでいた。

私は、本をバックにしまいこみ、勘定を済ませると店の外に出た。薄紫の空から、いつのまにか雨が降りだしていて、私は小さなアーケードの下で立ちつくした。突然の天気雨に、通る人はあわててカバンを頭にかざしたりして走り抜けてゆく。

 そのうちに、大きな黒い傘が、私の前で立ち止まった。
「駅まで、入っていきませんか?」
低くかすれた声のその人を、私はよく知っている気がした。傘の柄を握っている形の良いその人の手を見た時、やっと、ああ、と思った。傘からひょいと顔をのぞかせたのは、ピアノ弾きの彼だった。
「お願いします」
私は、微笑んで彼と並んで歩きだした。ダンガリーシャツにジーンズ姿の彼は、人なつっこくて気のいい青年に見えた。
お店ではモノトーンのスーツしか見たことないから、と私が言うと、「あれは、舞台衣装です」彼は照れ臭そうに笑った。

「あなたのピアノは私のお手本なのよ」
「君も弾くの?」
「ええ。でも、小さな子たちに教えるのがせいぜい。それに、今はもう弾いてない」
「どうして」
「…壊れちゃったから、かな」私は口ごもる。
「ひどいの?」
「音が出ないのよ。二つ」私がそう答えると、彼はほっとしたように「なんだ」と笑った。
「良かったら、僕が直してあげますよ」
「あなたが?」 「ええ。僕は弾くだけじゃなくて、調律もやるんです。いや…どちらかというと、調律の方が得意かな。でも、僕がやるとちょっと高くつくことになりますけど」
「そんなに高いの?」私は声をおとした。
「そう。うんと熱いコーヒーを一杯いただくことになります」
 私たちは顔を見合わせて笑った。笑いながらも、心の中は迷ってうつろに濁っていた。彼の明るい笑い声が、私に光を投げた。その光が私の後ろに長く暗い影を造った。

 約束通り、その週の日曜日に、彼はやってきた。白い壁にひっそりとたたずみ口をつぐんでいるピアノの前に立つと、彼はそっと蓋に触れた。
「鍵、かけてるんだね」
私は思い出し、あわてて鈍い金色の鍵を手渡した。

 仕事に取りかかった彼は、自分の職業であるかのように無駄口をたたかず、自信に満ちていた。
切れた弦を取り替え、ぴんと張ってきっちりとねじを締めていく。カバンから音叉を取り出し、澄んだ音色をたてて、ひとつひとつの音を合わせていく。腕まくりをして、もくもくと作業する姿には、ひとつの無駄もない。
わたしは逃げ出すこともできずに、じっと彼のやり方を見ていた。

 ピアノは、私が殺してきた気持ちの死体置場だった。
人を好きになればなるほど、私は心を閉ざしてきた。なくすのがこわいからだ。わがままを言ったり、すねたり、怒鳴ったり、そんなことをして嫌われるのがこわかったからだ。
ずっとずっと小さな時から、わたしはひっそりと気持ちを殺してきた。その隠し場所がピアノだったのだ。

 今、そのピアノに昼間の明るい日差しが当たり、青空の色を含んだ空気がたっぷりと注がれていく。中に積もったほこりはきれいに取り払われ、錆付いた鍵盤は、次第になめらかに滑りだす。

 ピアノは、もう醜いものではなくなった。完璧なものの前で、私はもう誰のせいにもできなくなったのだ。

 彼は、ピアノの前に座ると、始めに〈ソ〉の鍵盤を押した。長い間しゃべることができなかった人が、初めて出した声のように、おそるおそる。そして<ラ>の鍵盤は、やっと歌える喜びにあふれていた。
「よし。直った、直った」
彼は、独り言のように小さな声で笑い、ゆっくりと背筋を伸ばして弾き始めた。

『別れの曲』だった。静かなその音の流れの中に、淡い夕暮れが見えた。ずっと向こうで誰かがひらひらと手を振っている。逆光でその姿は陰になっているけれど、その肩の線はカイによく似ていた。

「ほらな。夕焼けの向こうでさよならしてるだろ」彼は得意そうに笑っていた。
まぶしくて目を細めると、その線はすうっと細くなり、ずっと前に亡くなった母の姿に変わっていた。私は手を振った。
「いい子にしてなさいね」
母は微笑んでいた。
ずっと求めていた母の優しい笑顔だった。私はちぎれるほど手を振り続けた。

 コーヒーサイフォンから、濃いコーヒーの香りが、ゆっくりとゆっくりと近付いてくるのを感じた。

END