最後の観覧車 第11回小さな童話大賞 工藤直子賞受賞作むぎわら ゆら

 その日の約束は、遊園地で観覧車に乗ることだった。
その短い約束のために、僕はアイが来るのを待っていた。透き通った真冬の空気が頬に触 れるので、何度もマフラーを巻き直したり、手を暖めるために買ったホットコーヒーの紙コップが、手のひらの中でゆっくりと冷えていくのがわかるけれど、待たされるのはきらいではない。

 ぬるくなったコーヒーを一息で飲みほした時、遠くから、沸騰したやかんみたいに真っ白な息を弾ませて、彼女が走ってくるのが見えた。
「また止めちゃったわけ?目覚まし」
アイは、笑っている僕の目の前まで来ると、はあはあ言いながらこくこくうなずいた。
彼女にとっての目覚まし時計は、時間どおりに起きるためではなくて、時間どおりに止めるためにあるのだから、それはしかたがない。
「あたしから誘ったのにねえ」
「いや、特にめずらしいことでもないから」
「うん。それも、そう」 苦笑いをしてから、アイは、何の迷いもなく観覧車を見上げた。
少し口を開けて、子供みたいに目を輝かせて。

 本当に彼女は、昔から観覧車が好きだった。それは、大抵ゆっくりと何か考えたいことがある時だったけれど、親同志に連れられてきていた頃も、僕はアイにひっぱられて、何度も観覧車に乗った。
ジェットコースターとか、お化け屋敷とか、きゃあきゃあ言いそうなものが好きそうに見える彼女が、しんとして上昇気流みたいに空に昇っていく観覧車に、おとなしく座っているのは、何かおかしなものだった。おしゃべりな彼女が、その時ばかりは、窓ガラスに 手のひらをぺたりとつけてひっそりとしている。おもちゃのような遠い家並みを見ているのか、それとも、もっと違う何かを見ているのか。

 だから、僕も黙って、そんな彼女を見守っている。いつもいっしょにいるアイが、ほんの少し遠くに思える、そんな貴重で奇妙な時間だ。

 僕とアイが、いつからいっしょにいたのかは思い出せないけれど、たとえば、屋外で写真を撮ると、微妙に色を変えながらもどこかに映っている空のように、僕の記憶の中にはいろんな顔のアイが住んでいる。ランドセルを背負っていても、セーラー服を着ていても、 成人式の振り袖を着ていても、それは変わりなかった。

「昨夜、電話あってさ」
アイがめずらしく口をきいたので、僕は少しぎくりとして彼女を見た。
「出来たって、ウェディングドレス」
「へえ。あのお姫さまみたいっていってたやつ?」
「うん。参ったよ、あたしが一番恥ずかしいって思ってたやつ。母さん得意になって、これがいいわあ、あれもいいわあって、きゃあきゃあ言って恥ずかしいったら」

「しょうがないよ、一人娘だもん。その上、おまえ、おばさんの好みことごとく裏切ってきたんだからさ」
「そうかな」
アイは、肩までまっすぐに伸びた髪を、手のひらでひとつに束ねながら言った。
「そうだよ。僕とアイの服、たった今まるまる取り替えたって違和感ないじゃないか」
キャラメル色のダッフルコートに細いジーンズの彼女と、こげ茶のジャケットに黒いジーンズの僕は、お互いに顔を見合わせた。
 ちょっと気の抜けた顔で見ていたアイは、口の端でにっと笑った。
「シュウって、ブラジャーしてたっけ?」

 観覧車が、時折り思い出したように、かたたた、と鳴る。微妙に揺れながら、グレイに曇った空に近づいてゆく。もうここ何週間も曇っているかのように、青空や顔に当たるあたたかな日差しが、ひどく懐かしい気がした。

 誰かの笑い顔みたいに晴れた青空と、高く響くアイの声。立っていたその場所から先は、何も考えなくても良かったあの頃。

「これからはさ」アイが、外を見ながら言った。
「女の子に不自由しないよ」
僕がきょとんとしていると、彼女はじれったそうに振り返った。
「障害物が片付くんだから」
「あいにく、僕はそんなにもてないんだ」
「知らないのは本人だけ。あたし、シュウのこと想ってる子、五人は知ってるよ」
「初耳だな」
「そりゃあそうよ。あたしが脅かしといたんだもん。あいつは、すっごく理想が高いんだぞうって」
「いつそんなこと言ったんだよ」
僕があきれてそう言うと、アイは嬉しそうににこにこ笑った。

「だってさ、シュウはとびきりいい奴だから、彼女もとびきりじゃなきゃだめだと思ったんだ。それに」
視線をぷいと窓の外に戻して、アイは言った。
「こんなにいい女にふらふらっとこないんだから、相当理想が高いんだろうなって思ってたからさ」
「どこに?」
「ここに」アイはふざけて、目をぱちぱちしばたかせた。

 僕にも、ガールフレンドはいたけれど、それはガールフレンドであって、アイではなか った。アイはアイであって、それより他の何かになるなんて思いもしなかった。
アイが僕といっしょにいるのは、たとえば、右手用の手袋を右手にはめるように、考えることもなくそれは当たり前のことだった。

 外を見ていたアイは、ダッフルコートのポケットから、片手を出して僕に差し出した。
「何さ」
「入ってたの、忘れてた」アイは言った。
銀色のぴかぴか光る包みの飴だった。
「あいつが前に、ポケットに入ってたからってくれたんだけど、いつから入ってたのかと思ったら、恐ろしくて食べられなかったんだ」
「何だよ、毒味か」 アイはうなづいてから、くくく、と笑った。

 あいつは、近々アイの旦那になる男だ。初めて会った時から、すっかり僕達を兄妹だと思い込んでいたらしく、まったくの赤の他人だとわかってからも、僕のことをお兄さんと呼んで慕っている。そそっかしくて、忠実で、無邪気な、子犬のような男だ。
アイさんといると、楽しくてしかたないんです、とすごい秘密でも話すみたいに僕に打ち明けたあいつの顔を思い出して、少し悔しくなった。そんなことは僕だって知っている。

 僕は包みを開いて、飴を口に放り投げた。一瞬、薄荷の味がぶわりと広がって、顔をしかめた。薄荷というよりは、湿布の味だった。眉間の当たりがつんとして、目が熱くなっ た。ひどい味だった。
こんなまずいものを、アイにあげてしまったあいつを思っておかし くなった。
「まったくあいつらしい」僕はくすくす笑った。
「うまい?それ、あいつにプロポーズされた帰り道にもらったんだけど」
僕がそれを聞いて声をたてて笑うと、アイはきょとんとしてから、つられて笑った。
「良かった。良かった」僕は言った。
「良かった。良かった」アイも言った。

 観覧車は、円の半分をゆっくりと描いて、てっぺんまでやってきていた。
僕は、その時、当たり前だけれど、昇りつめたら下りなければいけない観覧車のことを思った。

遠くから見たら、永遠に何ひとつ変わらずに回り続けているように見える観覧車の、つなぎ目のない円のどこかに、ひっそりと終わりが潜んでいるような気がした。それは、今の僕達にとって、明日からが微妙に変わるような、大きな終わりに思えた。

 走り回る子供たちや空に響く音楽を見下ろしている、白くてちいさな横顔を僕は見つめていた。
「ねえ、シュウ」アイが横顔のままつぶやいた。
「あたしさあ、生まれてこのかた、観覧車ってシュウとしか乗ったことないんだ」
「へえ、そうなんだ」
「なんでかなあ。別にそうしようと思ってたわけじゃないのに」
「ああ、そういえば」
「何?」アイが振り返った。
「僕もそうだ」
「へええ。偶然だねえ」
アイは子供のような顔で笑った。心からうれしそうな顔だった。

 本当のところ、少なくとも僕は、偶然なんかじゃなかった。まるで守らなければならない規則のように、いつも心の片隅にあって、僕は忠実にそれを守っていた。
口に出したら、ひどく少女趣味のような気がして、代わりに僕はつぶやいた。
「ほんと。偶然」
アイは一瞬、探るような目でちらりと僕を見たような気がしたけれど、僕はかまわずに言った。
「これからは、あいつと選手交替」
「ううん」 アイは、笑った顔のままで首を振った。
「もう乗らないよ」
「なんでさ」
「もう、子供じゃないんだからさ」

 観覧車の扉が開いて、立ち上がった僕達と入違いに冷たい北風とすれ違う。肩をすくめて、 ポケットに手を入れたアイは、空を見上げてつぶやいた。
「ああ、晴れてたら良かったのにねえ」

 その声は本当に残念そうで、僕は、何か特別な魔法でも使って、一瞬にして青空に変えてしまえたらいいのにと心から思った。
そうしたら、なんだか雲行きがあやしい僕の心にも、何か確かなものが見えるのに、そんな気がした。

END