朝のできごと 毎日新聞社主催 第6回「小さな童話」大賞 山下明生賞受賞むぎわら ゆら

 四月も半ばすぎた日の朝。 三日ほど降りつづいた雨もようやくあがって、 おおきなガラス窓から陽の光が、線になってさしこんでいます。

 八時をすぎて、お母さんは、やっと一息ついて、台所の椅子に腰をおろしました。
四月から小学生になった女の子と、お父さんを送りだすのはなかなかたいへんなことです。
朝食を作ってから、お父さんのワイシャツやくつ下をだして、女の子の髪の毛を三つ編みに結ってあげます。遅刻しないように時計を気にしながら、ちいさな台所を行ったり来たり。二人を送りだしてから、ようやくほっと息をつくことができるのです。

お母さんは、白いティーカップに紅茶を注いで、ゆったりと飲みはじめました。
朝もやの色をしたゆげは、やさしくお母さんの顔を包みこみます。

 その時、玄関のチャイムがなりました。
「まあ、だれかしら。今ごろ……」
あわててエプロンをはずしてから、玄関のドアをあけました。
 そこに立っていたのは、見たこともない若者でした。
黒いズボンに、うすいクリーム色のシャツを着た若者は、ぎこちなく笑っていました。
「なにか……ご用ですか?」
あけたドアのあいだから、ひんやりした風がふきこんだようで、お母さんは目を細めました。
若者は、てれくさそうに頭をかいてから、ポケットからちいさなびんをとりだしました。
「これを、買っていただけないでしょうか?」
「それは……なに?」
お母さんは、若者の手をのぞきこみました。手のひらにすっぽりとはいってしまいそうな、ガラスの透明なびんが、陽の光をいっぱいにつめこんだように金色に輝いています。

「はちみつです。今朝、いちばんにとれたはちみつです」
「はちみつ……?」
お母さんは、昨日買ってきたばかりのはちみつのびんが、戸だなの奥にはいっていることを思い出しました。
 けれど、びんをしっかりとにぎりしめて、心配そうにお母さんの顔を見ている若者を見て、お母さんは、にっこりほほえみました。
「そのはちみつ、おいしいのかしら?」
お母さんが、そうたずねると、若者は真剣な顔でこたえました。
「ええ、もちろんです。どんな店で売っているものより何倍もおいしいですよ。新鮮ですから。きっと気にいっていただけること、まちがいなしです」
「そう。それじゃあ、ためしにひとついただこうかしら」
お母さんが、そう言うと、若者はうれしそうに笑いました。
「おいくらなの?」

お母さんが、財布をだすと、若者は、「とんでもない」というように、おおきく首をふりました。
「ぼくはお金なんていりません。いただいても、困るだけですから」
「でも、それじゃあ……」
買ってほしくてきたのに、お金はいらないなんて、なんて変わった人だろう、とお母さんは思いました。
「はちみつの代金は、花にしてください」
若者は、お母さんの目をまっすぐに見て言いました。
「花……ですって?」
「ええ。花です。おたくの庭に、少しでいいですから、花を植えていただきたいんです。だめでしょうか?」
 お母さんは、若者の顔をまじまじと見つめていましたが、やがて、うなずきました。
「わかったわ。今日さっそく、お花屋さんに行ってみましょう」
「ありがとうざいます」

若者は、ほっとしたように、何度もそう言いながら、帰ってゆきました。

 しんと静まりかえった家の中では、まるで、夢のひとときのようでした。
けれども、お母さんの手のひらの上には、ちゃんと、ガラスの小びんがのっています。
「ほんとうに、変わった人……」
お母さんは、笑いながらそうつぶやくと、飲みかけの紅茶に、若者から買ったはちみつをたらしました。
もう、冷えてぬるくなってしまっている紅茶の中に、金色のはちみつは、あっという間に溶けてしまいました。

 お母さんは、ふたたび、椅子に腰をおろして紅茶をひとくち飲みました。
「まあ、ほんとうにおいしい」 いつもと同じ、ティーバックの紅茶なのに、なんだか不思議な感じがしました。なつかしいような、せつないような……。

 いつのまにか、流し台やテーブルは消えていて、お母さんは、緑の香りがする教室の中で、古い木の椅子に座っていました。
ほんの少女のお母さんは、まるで魔法でもかけられているかのように、二本の編み棒を動かしています。
「すごいなあ」
そう、感心したようにつぶやいたのは、同じクラスの少年でした。
少女の手の中で、一本の毛糸は、あたたかいセーターに変わってゆきます。
「誰のセーターを編んでるの?」
少年は、心配そうにたずねました。
「ないしょ…」
うつむいたまま、少女は答えました。
「ふうん」
少年の好きな若草色の毛糸玉が、するするとすべるようにほどけてゆきます。

少女が見上げると、少年はてれたように笑いました。陽に灼けた顔が輝いて、光の中で溶けていきそうでした。
 つられてはずかしそうにほほえんだまま、お母さんは目をさましました。
「いつのまに、眠ってしまったのかしら……」
からになったカップを見つめながら、ぼんやりとつぶやきました。
「なつかしい夢……ほんとうにひさしぶりに見たわ」
 あの時の少年は、あの時の笑顔のままで、今はたのもしいお父さんです。

 お母さんは、立ち上がると、台所をかたづけ始めました。お皿やカップをぴかぴかにみがいて、テーブルの上をきれいにふきおわったとたん、若者との約束を思い出しました。
「そうだわ。お花を買ってこなくちゃね」
不思議な約束でしたが、お母さんは、さっそく出かけました。

 色とりどりのチューリップの鉢植えを買ってもどってきた時には、あたりはもうゆうぐれでした。 ばら色にそまったちいさな庭には、一本だけサクラの木が生えています。
うすももいろの花びらが、いっぱいにひらいています。
 お母さんは、そのすぐそばに、小石で囲った花壇をつくって、鉢植えからチューリップを植えかえました。物干し竿に占領された庭も、春の色であふれるようでした。
「あの人、ちゃんと見にきてくれるかしらね」
 うれしそうに笑っていた若者の顔を思い浮かべて、そんなふうに思いました。

 日が暮れて、空はあいいろにしずんでゆきました。
夕食の時間に、女の子が、テーブルの上のはちみつのびんをみつけました。
「ねえ、お母さん。これなあに?」
 

「はちみつよ。とってもおいしいの。それに、ぐうぜんかもしれないけど、とてもすてきな夢が見られるみたい」
お母さんは、うっとりと昼間の夢を思い出して、そう答えました。
 会社から帰ったお父さんも、めずらしそうにびんを手にとりました。
「手づくりじゃないか。ラベルも手書きだし」
うすむらさき色のラベルを見つめて、お父さんがおどろいたようにつぶやきました。
「おや。これは、まちがいじゃないか。これじゃ、うちの住所じゃあ…」
お父さんは、ラベルに書かれた製造元の住所を指さしました。

『みどり台三丁目、サヤマさん宅サクラの木、はちのす工場』
そこには、ほんとうにちいさな字で、そう書いてありました。