日だまり椅子         エッセイ

S.キング小説の映像化

久しぶりにスティーブン・キングが原作の映画『グリーンマイル』を見てきた。
6巻まである小説のうち、最終巻を残しての鑑賞。
前評判通り面白かったし、何よりキャスティングが良かったように思う。
トム・ハンクスはもちろん、私は特に、ブルータス役のデヴィッド・モース、
そしてジョン・コーフィ役のマイケル・クラーク・ダンカンが良かった。

ストーリーは、刑務所の死刑囚房が舞台。
死刑囚が電気椅子にたどり着くまでの緑色のリノリウムの通路、
通称<グリーン・マイル>を巡る出来事を描いている。

私は彼の小説が昔から好きで、その作品をしっかり読んでから映画を見ることもあってか、
実はガッカリすることが多い。
「キング小説の映画化でガッカリ」は、彼の小説を好んで読む方の間では、
周知のことなのかもしれないけれど。

私は映画に詳しくはないけれど、個人的に思うことのひとつとして、
「キング=オカルト」の図式への物足りなさ。
確かにストーリーとしては、霊的なことや超能力などのオカルトが大部分を占める。

その物理的な怖さや、追いつめられ支配される恐怖を、
映画という独立した別の作品として見るのも良いかと思う。

でも、私が最も心魅かれる要素、キングの小説に内包される足下が掬われていくような悲しさ、
ごく平凡なアメリカの中流家庭が崩れていくさま、
あたりまえの日常や、大切に思うものを失っていく怖さまで
表現されることはないのが残念だったりする。

それは、小説の描写の克明さも一因しているのだろうか。
本を読んでいる段階で、場所や光景が、あたかもテレビ映像でも見ているように
「そのまま」脳裏に浮かぶ。
登場人物のなかで、ほんの一場面しか出ない人物さえ、
背負う人生の背景をありありと見せる。

キングのその圧倒的な(時に執拗とも思える)文章は、
もしかしたら映像化する必要などないのかもしれないとも思ってしまうのだ。

とはいえ、『スタンド・バイ・ミー』や『ショーシャンクの空に』は大好きな映画。
これらはオカルトではないからかもしれないし、原作が中編だった分想像の余地があり、
むしろ広がりを感じられたからかもしれないけれど。

とにかく、久しぶりに見られたキングの映画『グリーンマイル』は、
かなり端折った部分はあるにしろ、いろんなテーマを持ち、立ち止まらせ、
考えさせられるいい映画になってました。

ささやかでありふれた

久しぶりに本屋さんでゆっくりと時間を過ごした日。
買うことを決めている本を買いに行くのではなく、
あやふやに記憶しているタイトルを手がかりに、
散歩感覚で本棚を見ている時間がとても好きだったりする。

手に取って、装丁を眺めて、ページをめくってみる。
ずいぶん前に気になっていたまま買わずじまいだった本、
特に好きな作家ではなかったのに、ふと読んでみようかという気になる本。
こういうのもまたちいさく偶然な出会いだと思ったりする。

その書店を含むショッピングモールは、贅沢な土地の使い方をした
バリアフリーになっていて、
車椅子ユーザーの私にもとても動きやすい。
今回の主役はその本屋さん。

通路は広く、車椅子が止まっていても通行の妨げにはならないので、
ゆったりと本を選ぶことができる。本棚は一貫して低い。

だから、普通なら届かなくて、しょっちゅう人の手を借りなければならない
上段の棚にも、自分の手が届く。
「棚の高さがない→収納できる書籍数が減る→その分、敷地の広さが要求される」
だろうから、どこでも可能ということではないだろうけれど。

そう。でも、守る過剰な優しさではなく、当たり前のことが何気なくできる、
難しいようで必要なのはただそれだけ。
サポートの方向性としてはすごく嬉しい。

小さな女の子がパタパタ通り過ぎざまに振り返り、私の前で立ち止まる。

「こんにちは」まんまるでまっすぐな瞳。
「どこ行くの?」と女の子。
「帰るの」
「一人で帰れる?」なんだかクラスの委員長さんみたいなてきぱき口調。
「帰れるよー」と答えつつ、その口調がおかしくてつい笑ってしまう。

目線の低さやその他の要素で、子供たちから見た私が、
いわゆる大人の領域にいないことをときどき感じる。
それは、楽しいことでもあり、ちょっと淋しいことでもある。
子供でもなく、大人でもなく、私は私だけど。

誰かにとって見えている自分というのを意識すると、
ふいに困惑してしまうのはなぜなんだろう。

おじいちゃんとおばあちゃんの世界

あたたかな冬晴れ。
高橋まゆみさんの人形展『故郷からのおくりもの』に出かけてきました。

私はお人形には特別な興味はない方なのですが、
少し前に高橋さんの作品が使われたテレビCMを見かけてからというもの、
なぜだかずっと気になっていました。

作者を調べ、「いつか見られたらいいなぁ」と漠然と思っていたら、
思いがけず近場で開催された展示会。なんだかツイてます。

実物を見るまで、てっきり5~6センチほどのサイズなのかと思っていたら、
一体30センチくらいはあるのでしょうか…。

孫を背負い洗濯物を干すおばあさん。
おばあさんを迎えにいき、手をつないで歩くおじいさんの帰り道。
ちいさな男の子と並んで釣竿をたらすおじいさん。
縁側でスイカを食べる子供たち。

本当にひとつひとつ(ひとりひとり)に独自の時間が流れ、
生きてきた背景があり、そこに生活があることを感じられる。
つい今しがたまで動いていたかのような躍動感と豊かな表情。
そして、どの角度から見ても、隙がないのです。

作品の多くは、お年寄りを描いたものですが、
当たり前のように繰り返される、平凡でささやかな毎日のなか、
自分の役割をしゃんと生きる。

孫や家族に囲まれ、あるいは夫婦ふたりでいたわりあい、
あるいはひとりきりでも。
そこにある切り取られた生活のひとこまから、そんな尊さを感じました。

何気ない光景なのに、ふと涙が出そうになる作品もあったりして。

作者の高橋まゆみさんも会場でお見かけしましたが、
思いがけずお若い、活動的な感じの女性でした。

高橋まゆみさんのHPはこちら

つないだ手の先にあるもの ~『命をくれたキス』を読んで

障害を持った人の本というのは、私はほとんど読まない。
否定する気持ちからではない。なんだかタジタジになってしまうのだ。
いつも頑張っていて、明るく前向きであることが求められている気がするからかもしれない。

『命をくれたキス』の著者、鈴木ひとみさんは元準ミスインターナショナルの美貌の持ち主。22歳の時の交通事故で頚椎を損傷し、車椅子ユーザーとなる。そして、事故以前に婚約していた伸行さんと結婚。ドラマ化された初めての著書『一年遅れのウェディングベル』は、その苦悩と再生の軌跡を綴ったものとして有名だ。

私もひとみさんと同じく交通事故で頚椎を損傷し、車椅子ユーザーだ。
といっても、美人でもないし、スポーツにもさっぱりなインドア人間だし、
アクティブでもなければ大阪弁も喋らない。
そして、損傷した個所が違うのだろう、体の状態もずいぶん違う。
同じ怪我をしたって、当然何もかもが同じであるわけではない。

それでも、著者が著者の考えで越えてきたことのなかに、
私も私なりにぶつかり、考えてきたことが重なり合う。
手術の過程、リハビリの厳しさ、将来の不安、周囲の人の目。

そして、今この本を手に取って良かったと思っている。

「介助するためとか、経済的なことからではなく、互いが互いを必要としていなければ一緒にいる意味がない」「一緒にいて孤独なら、私は一人で生きていく孤独を選ぶ」

そんな感じの一節がある。ご主人との様々なエピソードから感じるのは、
まさにその「その人そのものを必要とし、必要とされること」。
誰かに寄りかかって生きていたら、そういう大切なことは見えなくなってしまいがちだ。
ひとみさんも、伸行さんも、一人の人として自立しているからこそ、そう感じられるのだと思う。

おもいきりケンカもし、何よりも効率的に手を抜き「一緒に生活を楽しむ心」を
ずっと持ち続けているお二人を、素直に素敵だなぁと思った。
タイトルの由来は、ここでは触れないでおこうと思う。

* * *
そういえば、本文中にも少し似た話があったのだけど、恋人と歩くとき、
車椅子を後ろから押してもらっていると顔が見えないから
手をつないで並んで歩いてみたことがある。
私の車椅子の原動力のほとんどは、歩いている彼の足。

でも、いつも後ろにいるはずの彼とつないだ手はあたたかく、
歩きながら顔が見える安心感も、並んでいることの心地よさも、
何気ない小さな変化で得た新鮮さが心から嬉しかった。

誰かと対等でありたいと願う時、
その誰かに自分との目線を合わせてもらうのを望むだけではなく、
自分もその人の目線まで動かす心も必要なのだと思った。

たぶん、どんなに小さなことでも、自分自身で感じ、考え抜き経験したことしか、
結局のところ自分の糧にはなりえないのだと思う。
人の数があれば、その数だけドラマはあって、もし特別な人生があるのだとしたら、
みんなそれぞれが特別な人生で、
たとえばこの本は、そのなかの切り取られたたったひとつ。

だからこそ、平凡だけど特別で、カッコ悪くて尊い愛の物語なのだろう。

命をくれたキス/鈴木ひとみ(小学館・1365E)ISBN4-09-396381-9