部屋にある本棚

いつか記憶からこぼれおちるとしても/

2013年01月5日

『緑の猫』を読んでいたら、ふいに、中学校の音楽室を思い出した。
お昼休みになると、私はピアノを拝借して弾いていた。
校舎にはたくさんの人がいるのに、音楽室はいつもひっそりとしていて、遠い思い出みたいな距離感で、誰かの笑い声やさまざまな音が交じり合ってむこう側にいる。

お腹はいっぱいだし、午後の日差しは穏やかで、弾き慣れた少し軋む(ついでに、ひとつだけ強く力のいる白鍵がある)グランドピアノは親しげだった。

いつも一緒にいた友達が、心の具合を悪くして学校に来なくなってから、
そんなふうに1人でいることが多くなった。
行動をともにするための「新しい人」を作るのも、なんとなく億劫だったし、
彼女の不在があまりに強烈だった。

女の子のかたまりは難しい。と当時の私は思っていた。
孤立せずにひとりでいられることの、なんと難しいことか。
仲の悪い人などいなかったのに、教室よりも音楽室の方が居心地が良かったのだ。

この本の一編『雨、きゅうり、緑茶』のなかで、修子の1人で暮らしているおばさんがこんなことを言う。
1人は自由で楽ちんだけど、家出ができないのが困る、と。
「だってね、私が家出しても、それは家出にならないのよ。帰れば旅行になっちゃうし、帰らなければ引越しになっちゃう」

「じゃあ、私が捜索願を出してあげるよ。だからおばさんも家出できる」
そんなふうに、修子は答えるのだ。みつかったら、ちゃんとむかえにいってあげよう。

なんて素敵な答え。
そうなのだ。完全な1人では私の思う「孤立せずにひとり」は叶わない。

この本に登場する10人の女子高校生は、だんぜん大人だと思う。
それぞれが友達と微妙に距離を保ちながら関わっている。
そして、収められた6つの物語たちも同様に、さりげなく関わり、すれ違っているのだ。
ちゃんとひとりでいるときの顔をもって。

通り過ぎればたぶん一番、きらきら不安定にゆれているとき。
ただ歩くだけの不器用でシンプルなデートのことも、
日記のなかでひっそりと少しずつ人を殺していたことも、
自分とは違うことに、言葉にならない嫉妬を覚えたことも、
彼女たちのできごとは、輪郭をうしない、やがてはほろほろとこぼれおちてゆくのだろう。

留めておきたいことだって、気を緩めたらいつのまにか置き忘れてしまうものだから。
こんなふうに、ふいをついて、記憶を呼び戻されるまでは。