部屋にある本棚

キャッチャー・イン・ザ・ライ/

2013年01月23日

キャッチャー・イン・ザ・ライ10代の終わりに、初めて手に取った『ライ麦畑でつかまえて』。
当時、私の印象に残ったホールデン少年ときたら、あまりに毒舌で、子供びいきで、躁鬱はげしくて、危うさばかりが目についた。
無性に胸がざわつく。
迷惑な人がそばにいる苛立ちに似たものだったか。
正直なところ好きな本とは言えなかった。

およそ40年ぶりに、村上春樹さんの訳で出版されたこの本。
名作といわれる作品だし、野崎孝さんの訳との対比から、賛否両論にぎわっているようだ。

両方読んで比べて楽しむのも良いし、どちらが優れているかではなく、
その時その人が良いと感じた本が、その人にとって良い本でいいのだと思う。
そんなふうに選択肢が増え、新たにより多くの人が読む機会が生まれたただけでも、
「40年後の新訳」は、大きな意味のあることと言えるのではないか。

私はといえば、訳者が変わることで、また時を経たことで、消化の具合がずいぶん違うのだなぁと新鮮だった。
個人的には、とにかく読みやすくなったというのが第一に挙げたいところ。
たとえば、「君」に話しかけている設定が全面に出ていることで、長い長い独白も自然に感じられたし、
言い回しも今の時代に沿って無理がない。

ただ、読んでいて、細かい部分の<違い>に気づくたび、目を止めることが何度もあった。
覚えていないようで、不思議と記憶には残っているものなのだ。
その中には、気に入ったものもあったし、そうではないものもあった。

大人と子供のはざまにいるようなホールデンは、相変わらず大人の欺瞞には敏感だし、
妹のフィービーにも出会う子供たちにもいちいち「まいっちゃう」し、不器用で神経質で気分の浮き沈みが激しい。

だけど、どうしようもなく確信をついている、彼が大人に感じることひとつひとつに。
「インチキばかり」と言いながら、底知れぬ寂しさで他人を求める矛盾や未熟さに。
アリーやフィービーへの手放しの愛情と信頼に。

時代を越え、文化を越え、共感を呼ぶのはわかる気がする。