部屋にある本棚

東京タワー/

2013年01月26日

東京タワー恋をするのは、ヒミツを持つことだとよく思う。明らかにできる恋でもそうでない恋でも。二人の間で共有する─あるいは、共謀といってもいいかもしれないそれらを、「他の人になんかわからない」なんて時おり思ったりもする。
そんなふうにほんの少し滑稽で、厄介で、なんとも無防備に、この本のなかの人々は、恋をしてしまっている。

主人公は、透と耕二という19歳の男の子。そして、二人とも年上の既婚の恋人がいる。
一見して対照的な二人。それは、恋のしかたにも表れているように思える。

たとえば、透は、生活そのすべてに詩史の存在が息づいている。
ひとりの時間、彼女の好きだと言った本を読み、彼女のお気に入りの音楽を聴き、
彼女からの電話を(あまり期待しないように)ただひたすら待っている。
ともすれば、詩史一色になっている自分を、「どうかしている」なんて1ミリたりとも疑ったりしない。
そのまっすぐさ。

一方、耕二は、最初から終わりを見据えている冷静さがある。それは、相手に家庭があることが前提。
同年代の彼女もちゃんといたりして、だからこそ、いつも「捨てるのは自分の方」と思っている。
したたかなようで実はとても弱い人。そう私には思えてしまう。

江國さんの小説で男の子が主人公というのもあまりなかったのではないだろうか。
また野蛮に身体を求め合う耕二と貴美子のような二人も。

最も江國さんらしい登場人物といえば、詩史さんだろうか。
とっておきのことをいつも隠し持っていそうな人。頭が良くて少女のように残酷な人。

いつもはたぶん「こちら側」で語られるそういう人のありようが、今回は透の恋する目から表現されている。
魅力的ではあるけれど、こんな人がそばにいたら、私はぶつかってしまうかもしれない。
そう思ってしまった台詞がいくつかあったけれど、ここでは内緒にしておこう。

東京タワーが見ている場所で繰り広げられる、ありふれた、そして特別な恋のお話。

※bk1 書評コンテストで江國香織賞をいただきました。

神様のボート/

2013年01月26日

神様のボート「これは狂気の物語です」 あとがきに記してある著者の言葉。
どこまでもひたすらに、ただひとりの人を愛し続けてしまうことは、狂気と隣り合わせなのかもしれない。

この本は、母と娘の物語。場所にも人にも、浮かないけれど馴染もしない母葉子。
彼女は「必ず戻ってくる」という恋人との約束を、ただ信じて生きている。
もはや<生活する>とは一線を画したように。

母の記憶の世界を見続けていた娘草子はやがて…

岸に舫うことのない<神様のボート>にのり、愛しい人の姿を探して、ゆうらり、ゆうらりとさまよう。
そんなふうに放浪しているこの親子の日常が淡々と続く前半、私は何度か本を閉じようかと迷った。
退屈というわけではない。
これっぽっちも疑わない人を見ているのは、幸福のようで少しさみしい。
そんな感情に似ている。

信じたいものだけを信じていられるのは、素敵なことだ。
それには、いつかどこかで現実と折り合いをつけなければならない時が来る。
成長の過程で草子の心のなかにふくれあがっていく葛藤は、
次第に、この物語に鮮やかな色彩を放ち、現実的な時間の流れへと変えていく。
そんなふたりの女性の心模様の描き方が見事で、後半は一気に読んでしまった。

それにしても。
人が今その場所に居続けるのは何のためなのか。そうさせているのは何なのか。
もし、その岸からふいに綱が解かれ、厄介なさまざまなしがらみが錯覚としたならば、
自分であれば、どこにでも行けるだろうか。どのようにも生きられるのだろうか。

本当にそう?

「自由と不自由はよく似ている」という文中の短いフレーズが印象的だった。

ウエハースの椅子/

2013年01月26日

ウエハースの椅子優美な細工をほどこした華奢なとりかご。
心がささくれだつほどに窮屈でもなければ、
羽根をはばたかせて飛び回るほどには広くない。

扉は、外に飛び立つことが可能なように、開け放たれているのだ。
いつでも。

やさしくて、おまけに妻と子供がいる恋人は、きっとこう言うのだろう。
「キミが羽ばたきたいのなら、ここから飛び去ってもいい」と。
ただし、絶望したほほえみを浮かべて。

愛していて、愛されていて、でも、どこにもたどりつけない。
腰をおろすことのできない<ウエハースの椅子>は
それを象徴しているのだろうか。

選び抜かれた美しい言葉でコーティングされた上品なお菓子。
江國さんならではの世界です。
官能的な甘さをあじわううちに、
もっと深いところからあらわれるのは、ほろ苦いかなしみです。

幸福な中で絶望していて。
「私」のゆるやかに壊れていくさまが、まっとうに感じるのは私だけでしょうか。